笠置シヅ子がモデルとなったNHK連続テレビ小説「ブギウギ」が2023年10月2日(月)から放送されている。
ドラマ「ブギウギ」を観て一口メモをXに投稿しています。ぜひご覧ください。
ジャズ歌手である笠置シヅ子はその出自と数奇な運命から語られることが多く、ドラマのような人生を送った人物でまさにドラマ向けだ。だが笠置シヅ子が活躍した時代は、日本とアメリカのポピュラー音楽界にとって大きな分岐の時代でもあった。現代に続くロック、ポップス、R&Bやジャズなどの現在に続くポピュラー音楽はこの時代に始まったと言ってもいいだろう。
ここでは他ではあまり語られない笠置シヅ子と服部良一のコンビが活躍した時代と、その背景に起こった日米ポップスの大分岐点について書いてみたい。
(歌手時代の表記は「笠置シズ子」だが、以下「笠置シヅ子」で統一する)
笠置シヅ子の魅力
まず笠置シヅ子の何に魅了されるのか。ジャズ評論家・瀬川昌久に言わせれれば「日本初の本格派ジャズ・シンガーは、笠置シヅ子とディック・ミネ」である。そして当時歌手といえばスタンドマイクしかなく、マイクの前に直立不動で歌うのが普通だった。しかし笠置はハイヒールを履き、派手なドレスを着て、ステージを所狭しと身体を動かし軽やかなステップで踊りながら歌っていた。観客もそのステージに圧倒されたという。テクニカルな面から見れば「歌がものすごくうまい」歌手ではない。ただしリズム感が抜群に良く、音だけでも歌を含めたそのパフォーマンスに圧倒される。これは歌劇団で養われ自然に身についたものだろう。以下の動画でその様子の断片がうかがえる。
この映像の前半は1948年の映画「舞台は廻る」の中で「ラッパと娘」と「ヘイヘイ・ブギ」を歌う笠置シヅ子。当時の映画なので音声は後付け(アフレコ)、専門振付師もいたのかもしれない。実際のコンサートの模様を記録した映像や音源はないのだが、当時の書籍を読むと実際のステージもこのようなものだったろうと想像できる。今では踊って歌うことは当たり前だがこの時代には異例だった。ハンドマイクなどなくスタンドマイクしかないのだから、歌い手は固定されたマイクの位置から動けないし、歌手は歌を歌うことに専念するということが当時の常識でもあった。
この映画が公開された1948年といえばまだ終戦から3年しかたっていない。連合国による占領下で、日本がこれからどうなるのか誰にも分からずに皆が不安の中で生きていた時代。そんな時に舞台でこんな陽気な歌手はいなかった。しかしプライベートではどん底だった。笠置は必ず走ってステージ袖から登場し、退場する際には勢いあまり止まれないため袖に笠置を受け止める人がいたという。
そんな笠置シヅ子の歌を聴いているとこちらも楽しくなってくる。それが最大の魅力だろう。
笠置シヅ子の音楽活動
戦前の活動 1927年(昭和2年)~1940年(昭和15年)
笠置シヅ子は1927年(昭和2年)に松竹楽劇部生徒養成所へ入所する。この時13歳!
1934年(昭和9年)に三笠静子名義で「恋のステップ」をソロ歌手として初めてリリースする。この曲の作曲はヘンリー服部(服部良一)であったがこのときはまだ服部と会ってはいない。
服部良一と初めて対面で会ったのは1938年(昭和13年)。服部は松竹楽劇団の正指揮者として構成・作曲・指揮と大活躍することになり、そのときにすでに一部で話題になっていた笠置シヅ子を紹介された。その時舞台を見た服部は他の少女歌劇出身の女の子とは別格と感じその日以来笠置のファンになる。笠置の自伝では、服部は当時アメリカの人気ジャズ歌手であるMaxine Sullivan(笠置より3歳年上)やMartha Raye(笠置より2歳年下)張りのスイング歌手に仕立てようとしたらしい。服部は笠置に限らずアメリカの音楽・ジャズをそのまま日本に輸入するのではなく、ジャズと歌謡曲や民謡の折衷を試みた。みんなが歌える大衆のための音楽制作を目指した。
笠置の人気は高まり1939年(昭和14年)に「スイングの女王」と雑誌で評される。この後、笠置シヅ子名義では初のレコードである「ラッパと娘」を初め「センチメンタル・ダイナ」「ホット・チャイナ」などを続けてリリースする。この頃はスイング調の曲が多く、後年の曲調と比較するとやや暗い。戦前最後に発表した「ホット・チャイナ」あたりはリズムが強調され後年につながる明るさも見せるが、ここで戦争に入り笠置と服部の活動に悪影響が出てくる。
戦中の活動 1940年(昭和15年)~1945年(昭和20年)
1940年に笠置の派手なステージに対し警視庁から丸の内界隈の劇場への出演を禁止されてしまう。当然服部も派手な曲を書けなくなる。「タンゴのお話」「アイレ可愛や」など発表しているが、服部流の美しいメロディーではあるのだが音楽的には一般の歌謡曲のようで後退している。
戦争の影響で1941年に松竹楽劇団が解散する。服部の勧めもあり笠置は独立し、笠置シズ子とその楽団を結成する。しかし1944年にマネージャーが勝手に興行師に転売するなどして楽団は解散。
笠置シヅ子と服部良一にとっては完全に停滞していた時期。
戦後の活動 1945年(昭和20年)~1956年(昭和31年)
笠置シヅ子の絶頂期である。1945年12月初旬、服部良一が戦地・上海から帰還して有楽町の日劇前を通ったときに、戦後始めての公演として「ハイライト・ショー」が開催されいてそこには笠置の名前があったという。その直後、笠置は悲嘆のどん底に突き落とされることになる。服部はそんな状況の笠置と日本人のために、明るく、心がウキウキし、派手な踊り、楽しい歌を作ろうと「東京ブギウギ」が生まれた。それ以前1942年ころから服部はブギのリズムを試しに使っていたが、本格的な流行歌として使ったのはこれが初めてだった。レコーディングには米軍の下士官がスタジオにやってきて「日本人がブギウギをやるのか、そりゃ面白い」とビール片手に観ていたという。その後さまざまなブギを歌い「ブギの女王」となる。その中でも村雨まさを(服部良一)作詞の「買い物ブギ」はリズムと歌詞が一体となり現代のラップのようである。
服部は笠置にメロディアスなものを歌う歌手ではなく、彼女はあくまでリズムの歌手だと位置づけていた。当時の近代音楽はすべてリズミックであり、リズミックに特長をもつ歌手がいちばん新しい歌手となる。服部はその素質を笠置に見た。自分の音楽実験の素材として最高の歌手が見つかったのだ。そして服部はこのようにも言っている「歌そのものからいえば、もっとうまい人がいくらでもいる。だが、いろいろなものを合わせると彼女ほど大衆の心理をつかむ歌手はいない。彼女はスタンダードな歌手の系列で評価はできない。」。
その頃の日本ポピュラー音楽界
歌謡曲とジャズしかない時代
ではその頃日本のポピュラー音楽業界はどのような状況であったか。ロックもR&Bもポップスもない時代、クラシックや純邦楽以外のポピュラー音楽は、大雑把に言えば歌謡曲とジャズしかなかった。当時の歌謡曲と言えば藤山一郎のように直立不動で歌う歌謡曲、または戦後で言えば並木路子の歌う「リンゴの唄」のような当時の人々の心情を唄う歌がヒットした。当時の歌謡曲の代表的な作曲家といえば日本的なメロディー重視の古賀政男。またこの頃の歌謡曲歌手は音楽大学を出て正規の音楽教育を受けている人がほとんどであるのも特徴である。
日本にジャズが入ってきたのは大正時代の半ばと言われており、昭和初期のジャズはジャズ喫茶で眉間にしわをよせ腕を組みながら、または自室にこもって「いいねえ」なんて言いながら「鑑賞」するものではなく、生演奏のバンドをバックに「踊る」ための音楽であった。バンドはスウィング・ジャズを演奏するための大編成のビッグバンドが主流であり、洋楽または洋楽志向の日本のポップスはすべてジャズと言われていた。当時ジャズの代表的な作曲家は服部良一。ダンスホールで踊るために演奏していたジャズも戦後には、まだ一緒にされていたタンゴ、シャンソン、ハワイアン、スイングジャズ、BeBop(=モダンジャズ)そして笠置が歌うようなジャズと細かくジャンルが分岐・専門化されてゆく。
三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみ)
1949年(昭和24年)、元々笠置シヅ子のモノマネで人気が出た美空ひばりがデビュー。そしてこの後三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみ)が人気になる。3人とも当初はジャズや洋楽ポップスも歌っていた。しかし美空ひばりは徐々に演歌路線に傾き、江利チエミは一番雰囲気が笠置シヅ子に近かったがこちらも演歌に傾き、雪村いずみは一番洋楽志向のポップスを歌ったが、結果いずれも笠置シヅ子を受け継ぐものはなかった。もっとも三人は笠置と年齢差23歳と同年齢で親子ほど違うため、受け継ぐ以前に完全に次世代の歌手たちだった。
日本のロック誕生
笠置シヅ子が歌手引退宣言をする1956年(昭和31年)と同年、小坂一也による日本初のElvis Presleyの日本語カバーが発売され、後に彼は“和製プレスリー”とまで言われるようになる。その後徐々にロカビリー/ロックンロール熱が高まり1958年(昭和33年)に第1回日劇ウエスタンカーニバルが開催され、そのブームは最高潮に達する。この頃が日本ロック誕生の年と言われている。笠置と服部とロックは別の音楽だが、激しいアクションを起こしながら、または踊りながら観せて歌うその姿勢は、ロックやR&Bに引き継がれているような気もする。
その頃のアメリカ・ポピュラー音楽界
戦前から戦後にかけて、アメリカのポピュラー音楽はどのようなものがあったのか。これも雑に言えば元々ヒルビリーと言われていたカントリー・ミュージックとブルース、そしてブルースから発展したジャズだけである。ジャズはBenny Goodman、Glenn MillerやDuke Ellingtonなど大編成でダンスを踊るための音楽であった。これは日本と同じ。しかし笠置が活躍したのとほぼ同時期1940年頃からアメリカではジャズの変革者が現れる。Charlie Parker、Thelonious Monk、Bud Powell、Art Blakeyらである。それはダンスをするためのジャズとは異なり小編成のコンボ形式で個人のアドリブ・ソロを競い合う音楽形式だった。いわゆるBeBop(ビ・バップ)の台頭だ。そしてBeBopによって大きく変化したジャズを50年代にモダン・ジャズと称するようになる。
BeBopとは違うジャズの流れとして、元々カントリーやジャズのギタリストだったLes Paulが、カントリー音楽をやっていた妻のMary Fordと組んで1951年How High The Moonをヒットさせる。しかしそれも1953年頃には勢いを失い、それに代わり1954年にはカントリーとブルースをベースにElvis PresleyやBill Hauleyが爆発的な人気を得るようになる。これがロックンロール(ロック)の誕生と言われている。
またさらに別の流れで、1945年頃ブルースやゴスペルをベースにしたリズム&ブルース(R&B)が生まれる。これも以降アメリカ・ポピュラー音楽の大きな流れになる。いずれも現代でも続く大きなジャンルがこの頃ほぼ同時に誕生したといえる。
日米ポピュラー音楽の中の笠置シヅ子
ここまで述べてきた笠置シヅ子の活動と日米ポピュラー音楽の変遷をまとめると次のようになる。
今まで述べてきたように、笠置シヅ子の歌手活動中または引退直後にかけて日米ともにポピュラー音楽には現在に続く新たな形式が誕生し、多彩なジャンルに分岐した時代だった。この辺りを意識しながら音楽を聴くとまた新たな発見があり楽しい。
笠置シヅ子の歌手引退以降
1956年(昭和31年)笠置シヅ子は歌手引退宣言をする。この頃にはすでにブギ人気が衰えていたが、笠置自身は舞台や映画に忙しく笠置自身の人気は落ちてはいない。笠置が歌手を引退したのは年齢とともに思い通りに身体が動かなくなったからと言われている。笠置自身非常にプロ意識が強く、他人に厳しかったが、それ以上に自分に厳しかった。1970年代に日本では戦後歌謡曲のリバイバルブームが起き、同時代に活躍した歌手に再びスポットライトが当たることになるのだが、このときも笠置は一切歌うことはなかった。だから昭和の戦後歌謡曲と聴いて、藤山一郎(スジャータのCM)、淡谷のり子あたりは聞き見覚えがあっても笠置シヅ子の名前は出てこない。
また笠置シヅ子歌手引退と共に服部良一もポピュラー音楽の流行歌を作ることに興味を失った気もする。実際歌謡曲への作品提供も減少している。その代わりCM音楽やクラシック・オーケストラ作品の方に注力するようになる。そして次世代の中村八大などの作曲家が台頭する時代へと続く。
何故か今まで歌手・笠置シヅ子がメディアで大きく取り上げられたことは少なかった。そのせいか現役時代を知らない世代は、戦後の映像で「東京ブギウギ」がバックに流れることが多く、戦後流行歌手のアイコンとして認識されている程度だろう。少なくとも私はそうだった。そして我々の世代は笠置シヅ子といえば「カネヨン」のCMでキツい関西弁をしゃべるおばさんのイメージが強いだろう。たまにドラマに出演しているのを見たこともある。あのおばさんは昔歌手だったのか程度の知識。歌手と女優の笠置シヅ子が同一人物とは思えなかった。
しかし調べてみると実はすごい歌手だったことが分かる。現役当時は長者番付けに載るほど有名な歌手であったのだが歌手としては徐々に忘れられ単なる戦後歌謡のアイコンになってしまった。
笠置シヅ子を知りたいと思っても、少し前までCDは1枚にまとめられたベスト盤のみ。書籍は2010年の「ブギの女王・笠置シヅ子」のみという寂しさ(ただしこの書籍はバランス良くまとめられており、関係者に独自取材も行っているファン必携の書)。YouTubeに画質が悪く断片的にアップされていくつかの映画を正規に見たくても視聴困難であった。
しかしドラマ「ブギウギ」が始まることにより、2023年9月から怒涛のごとく新刊書籍が出版された。今まで未CD化だった残りの1曲が含まれた新たなベスト盤もリリースされた。NHKの連続テレビ小説に取り上げられるということのすごさに驚いた。残るのは笠置が現役歌手時代に出演した多くの視聴困難映画のソフト化または放送を望むばかりだ。ただし手元に残しておきたいのでストリーミングやオンデマンドは止めて欲しい。
CD「コロムビア音得盤シリーズ 笠置シズ子」のライナーノーツの中で「こんな話しでよかったらいつでも話してあげるよ」と晩年の笠置に声を掛けられたが、それを果たせなかったとある。笠置はサービス精神が旺盛で、話が面白いので1960年代くらいまでは雑誌のインタビューによく載っていたらしいが音楽の話を読んだことがない。笠置自身はプライベートでどんな音楽が好きだったのか、どんな歌手に影響を受けたのか、晩年日本のポピュラー音楽界に対してどんなことを思っていたのか、誰かに聴いて欲しかった。
ディスクガイド – おすすめCD
笠置シズ子の音源は現在でもベスト盤を含め多くのCDが発売されている。とりあえず聴いてみたい人から、マニアックな音源まで順に紹介する。
とりあえず聴いてみたい人向けの良質なベスト盤
私が笠置シヅ子に興味がわき初めて聴いたベスト盤。ジャケット・デザインがいかにも昭和戦後歌謡だが「東京ブギウギ」「買物ブギ」などの代表曲から、ブギではない「センチメンタル・ダイナ」「セコハン娘」など選曲のバランスがいい。私の好きな「ホームラン・ブギ」「ヘイヘイ・ブギ」も収録。笠置シヅ子の経歴がコンパクトにまとめられたライナーノーツもいい。
ベスト盤を聴いて気に入り、他の音源も聴きたくなった人向けの全曲集
昭和歌謡には「決定盤」「全曲集」など、何が「決定」なのか怪しいキャッチが付いた音源集が多いがこれは本物の「決定盤」であり「全曲集」。笠置シヅ子名義で公式にレコードになった音源は全56曲。正確にはそのうちこの3枚組CDには55曲が収録されている「ほぼ」全曲集。注意しなくてはならないのはこの3枚組CDには初回盤(72CA-2894~96)と再発盤(COCA-71106~08)があり、初回盤は全53曲収録で再発盤は全55曲収録。初回盤が2曲少ないのは発売当時に音源がなかったからであり、このCDのライナーノーツでその2曲(「東京のカナカ娘」「ウェーキは晴れ」)を持っている人がいたらレコードを貸して欲しいと訴えたら、再発盤発売までにその2曲が見つかったからである(ボーナス・トラックとして収録)。しかしそれでも残る1曲「北海ブギウギ」が公式に発売されるまで16年待たねばならなかった。
実際行われた舞台の模様を聴くことができる貴重な発掘音源収録盤
若者ファンを引き込もうと意図したであろうジャケット・デザインの2014年発売の2枚組ベスト盤。1枚目はベスト盤。目玉は「Screen & Stage」と題された2枚目のCD。笠置シヅ子はレコード盤収録曲以外にも多数の映画や舞台に出演しており、そこでしか聴けない音源やレコード音源を大幅にリアレンジした音源が多数存在する。当時は歌もバックバンドも共に一発録音で後から修正できない。ここではそれら映画の中の音源と舞台の音源を初めて収録している。一番の聴きものは1952年3月1日から4月17日に帝国劇場で行われた帝劇ミュージカル「浮かれ源氏」の録音7曲である。出演していた榎本健一が録音したものが発見され収録となった。これがすごい。笠置の実際の舞台やコンサートの模様は今では文字でしか知ることはできないが、ここではレコード音源を大幅にヴァージョンアップしたような素晴らしい歌と演奏が聴ける。時代からしてオーディエンス録音だろうがとても音がよく舞台の熱気が伝わってくる。どれほどすさまじい舞台を繰り広げていたのだろか。踊りながら歌う笠置はときに息切れしながら歌い、服部良一が指揮するバンドは強烈なグルーヴを生み出している。このミュージカルの前年1951年にRosemary Clooneyが歌って大ヒットした現代ではブギのクラシックとなっている「Come On-A My House」をいち早く採り入れた「賀茂の祭り(原曲からのタイトルのもじりがいい)」。ちなみにCome On-A My Houseは1952年に江利チエミが「家へおいでよ」の邦題で歌いやはり大ヒットしている。レコード音源にはなっておらずこのCDで初めて聴いた「地獄裁判ブギ」はため息がでるほど素晴らしいし、レコード音源と同じ曲だとは思えない「ムソルグスキー / 禿山の一夜」を引用した「雷ソング」はさぞ激しいダンスをしながら歌っていたのだろう。これら音源を聴く度に映像を観たくなる。ちなみにこの音源発掘には大瀧詠一もかかわっており、詳しい事情はライナーノーツに記載してある。
またこのCDには笠置シヅ子がまだ独立前の大阪松竹少女歌劇声楽部在籍時代に三笠静子名義でリリースした「恋のステップ」がボーナストラックとして初CD化されている。作曲・編曲は服部ヘンリー(服部良一)。この頃はまだ後年のパワフルな歌唱ではなく、曲も少女歌劇団的であるが貴重な音源である。
ついに発掘された「北海ブギウギ」収録のベスト盤
2023年5月、笠置シヅ子が朝ドラになるニュースと同時に幻の「北海ブギウギ」を所有しているコレクターから借りることができたので公式に初CD化されるとのニュースが流れた。そして2023年7月21日に「北海ブギウギ」が収録されたこのベスト盤が発売された。他の音源は上述したCDに収録されているので「北海ブギウギ」を含めて笠置シヅ子のレコード音源をコンプリートしたい人向けのCDとも言える。
ブックガイド – おすすめ本と笠置シヅ子ブーム
朝ドラで笠置シヅ子が扱われることが決まり、9月に入り関連本が大量に出版された。当然朝ドラの関連書籍は売れるので出版されたのだが、今までのことを考えるとファンとしてはうれしい。まだすべて読んでいないのだが売り切れになる前にすべて手に入れたいと思っている。
それと同時にこのブームにのって是非笠置シヅ子が出演している映画やテレビ番組を可能な限り放送またはソフト化して欲しい。残念ながら内容が伴わない映画が多いのかもしれないが、そこには笠置が歌う貴重な姿がある。笠置シヅ子の本当のすごさは踊りながら歌い表現する姿にこそあると思っているからだ。
ドラマ「ブギウギ」原案本とオビにある。私が初めて読んだ笠置シヅ子の本で人生を網羅的に書かれている。雑誌のインタビューや自伝からの引用が便利なのと、初版が2010年なので今では難しいかもしれない笠置のステージを実際に観た人へのインタビューが貴重。
2023年まで笠置シズ子の書籍は「ブギの女王・笠置シヅ子―心ズキズキワクワクああしんど」の一冊だけだった。しかし実は1948年(昭和23年)に笠置が書いた「歌う自畫像──私のブギウギ傅記」(北斗出版社)という自伝が出版されている。これが大変な稀少本で国立国会図書館デジタルコレクションで読むしかなかった。だがこれは仮名遣いや漢字が古く現代ではとても読みにくい。しかしこの本が読みやすく整理され2023年9月に復刊された。とても忙しかった現役時代の自伝であり、口述筆記によりゴーストライターが書いたのではないかと言われているが、それでも誕生から子供が生まれるまでの本人にしかわからない微妙な気持ちなどが、ざっくばらんに書かれており、とても几帳面で真面目な性格も文章から伝わってくる。
参考文献:
ブギの女王・笠置シヅ子―心ズキズキワクワクああしんど 砂古口 早苗・著(現代書館・2010年)
笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記 笠置シヅ子・著(宝島社・2023年)
ぼくの音楽人生 服部良一・著(日本文芸社・1996年)
日本ジャズの誕生 瀬川昌久+大谷能生・著(青土社・2009年)
瀬川昌久自選著作集 瀬川昌久・著(河出書房新社・2016年)
日本ロック大系 1957-1979[上] 月刊「ON STAGE」特別編集(白夜書房・1990年)
ジャズ批評207号 2019年1月号「特集ジャズと昭和」(ジャズ批評社・2019年)